ノベルゲームの周辺

with the marginalized

物質的身体と向きあう: 『沙耶の唄』『ぼくのたいせつなもの』

ノベルゲームにおいて環境人文学に関わるテーマが少ないと感じるのは私だけだろうか。これは環境、非人間を表象することが、人間の社会関係にどう影響するかを捉えるのが難しいということなのか。しかし人間の身体の物質性に注目するとき、再考したいと思う作品がいくつかあった。そのなかでもここでは『沙耶の唄』と『ぼくのたいせつなもの』についてふれてみたい。作品自体へ言及する前に、今回の理論的枠組であるマテリアル・エコクリティシズムについて少しだけ整理する。

 

人間と非人間の関係を探求するマテリアリズム・エコクリティシズムの議論から、この記事で検討するテーマは三つである。ひとつは人間の抱く純粋性(purity)について。これがいかに人間中心的な(anthropocentric)幻想であり、人間にとって不衛生で有害なものが、非人間にとってはその限りではないという近年の議論はとても重要である*1。また腐蝕によって身体が人間/非人間の豊かな交流の場となるという議論も一考に値する*2。ふたつめは生物がはらむ超身体性(trans-corporeality)について。人間や非人間(生物だけでなく無生物も含む)は日々の営みのなかでつねに別の身体と接触し、その影響を受けて生きている。つまり超身体性とは、人間の身体と環境とのあいだの物質的交換を意味する*3。その意味で一個の身体は、様々な身体が複雑に交錯した錯綜体(assemblage)だと捉えられる。最後は非人間のエージェンシーについて。これはエージェンシーが人間中心的に捉えられてきたというポスト・ヒューマニズムの議論にも関わるもので、非人間が世界を構築するさまをどのように理解するかが問題となる。

 

沙耶の唄』における肉塊の表現は、私たちの世界に対する認識がいかに人間中心的であるかを視覚化するものだ。本作において、人間も世界も別け隔てなく同じ肉塊であることは、すべてのものの区別をなくし均質化する問題点をはらむ一方、人間も非人間も同じ物質にすぎないことを強調する。これは地球上で人間だけが言語を操る知的な存在であるという人間例外主義(human exceptionalism)に疑問を呈し、人間/非人間の二項対立を解体すること、つまりは人間と非人間は隔てなく交錯して世界を構築していることを意味する。人間の視覚中心主義(ocularcentrism)への批判としても理解できる肉塊の世界は、自分たちにとってグロテスクに見えるものを人間がいかに社会から排除してきたかを暗に示すものでもある。

 

こうした肉塊の世界と沙耶の存在は、私たちの持つ清潔さ、純粋性という幻想をうち砕き、人間のものとは異なる視界で世界を描きなおすよう促す。郁紀にとっては美しい少女である沙耶が、彼以外には腐敗した肉塊に見えるという現実は、人間の抱く純粋性が普遍的でないことを暗に示すものだ。沙耶が郁紀を生かすということは、人間から(一部の人間から、と言ってもいい)見れば醜いものに人間が生かされており、世界は人間にとって醜いものから成っているという証左でもある。これらの表現はいずれも、人間と非人間の互恵関係を評価する際、人間はそれをグロテスクにしか描けないという問題をも前景化する。グロテスクなものを排除しようとする私たちの傾向が、人間/非人間の互恵関係を積極的には認めない、かねてからの人間中心主義を高めてきたことは事実である。こうした美醜の反転、同一化を扱っている点で、本作は環境人文学的なメッセージをはらむものだと言える。

ぼくのたいせつなもの』のケミカルと臓器移植の問題は、人間の物質的身体性についての好例を提供してくれる。物質としての臓器を移植することで人間が生かされるというのは、人間が非人間との接触によって生きていることの証左である。ケミカルという医療実践、そして臓器移植によって焦点化されているのは、人間/非人間における物質的交換関係であり、両者が人間の身体において(あるいは非人間の身体において)交錯するという超身体性である。臓器は人間の一部でありながらも、それだけでは機能せず、人間の身体に埋めこまれてはじめて機能を果たす。ケミカルもまた、限りなく人間に近い非人間でありながらも、人間の助力なくしては存続できない存在である。本作のケミカルは、様々な物質がネットワークを構築して人間の生を支えていること(逆もまた然り)、さらに人間と非人間が相互構築的関係にあることを示す役割を果たしている。

 

両作品はいずれも、人間と非人間が交錯する身体性の問題を通して、人間とはどんな存在なのかを問いなおすポスト・ヒューマニズムの問題を提起する。肉塊としての沙耶も、ケミカルとしての冬木、あるいは臓器も、エージェントとして世界の構築に関わる非人間であり、人間に与える非人間の影響の大きさを物語っている。身体性が重要となることの多いノベルゲームにおいて、人間の物質性から非人間との関係をどのように記述するかは、今後の注目すべきポイントのひとつであると思う。

 

*1:Shotwell, Alexis. Against Purity: Living Ethically in Compromised Times, U of Minesota P, 2016, p. 9.

*2:Lorimer, Jamie. "Rot." Environmental Humanities, vol. 8, no. 2, 2016, p.236.

*3:Alaimo, Stacy. Bodily Natures: Science, Environment, and the Material Self. Indiana UP, 2010, p. 2.

セカイ系について

r20115.hatenablog.com

このサイトの『白昼夢の青写真』についての所感は、セカイ系とノベルゲームの変遷を考えるうえでとても重要なものに思われる。

ゼロ年代セカイ系が流行った後、それを乗り越えるために出現した2010年代の「セカイ系の否定」技法。まどマギ穢翼のユースティアと同じ主題。セカイ系とは大雑把に言うと、世界がどうなろうとも周囲の関係性が重要というテーマ。「セカイ系の否定」とは狭い関係性を乗り越え愛する人を救うため主体的な意志決定により人類全体を救済すること。世凪Bは余命幾何もない生命を、主人公との安寧な生活よりも、人類の救済のために使うことに決めたのだ。

0年代前後から続くセカイ系の作品は、ある限定された社会・共同体のなかで起きる個人的な関係が、よりグローバルな世界の動向と結びつくという、いわゆる地方主義regionalism)のグローバル化globalization)を描いてきた。この枠組みで個人的主題を考えることで、私たちの身近で起きる些細な、しかし個人的にはとても重要な問題が、別の共同体にとっても大きな重要性を持つと主張することができる。この思考が重要なのは、国籍や人種、民族性を超えた人間の結びつき、いわゆるコスモポリタニズム(cosmopolitanism)において不可欠な価値観だからである。この観点から見ると、日常の片隅で起こる男女の恋愛関係が、人間にとって本質的な問題となり、ひいては世界を構成する(そして解体する脅威もはらむ)重大な関係性であると捉えなおすことができる。

 

それに対しここ10年くらいは、このブログの方が言うところの「セカイ系の否定」を示す作品が増えてきているように思う。たとえば『ATRI-My Dear Moments-』においても、主人公が男女間の問題を斥け、環境危機から世界を救う道へと踏みだしていく。ここで重要なのは「セカイ系の否定」が、個人を救うか世界を救うかの二択ではないということだ。個人の救済と世界の救済とは結びついており、どちらかが救われるのではなく、両者が救われなければならない。たとえばWHITE ALBUM2は、セカイ系の物語(かずさルート)とセカイ系の否定の物語(雪菜ルート)が対置された作品だと言える(前記事参照)。かずさルートは、雪菜に代表される日本の家社会的共同体の価値を否定し、自分の属するセカイ=共同体を捨てる物語である。雪菜ルートは言うまでもなく、雪菜を救うことが共同体の福祉にかなう選択となるため、大団円として結ばれている。これは『サクラノ詩』『サクラノ刻』でも別の形で描かれたものだ。個人の福祉は公共の福祉と合致せねばならず、また自然に合致するという、セカイ系を斥ける物語が紡がれはじめている。

これは別の文脈で見ると非常におもしろい現象として見えてくる。たとえば戦後に発展した初期のフェミニズムは、女性の声を奪う父権的社会を批判し、いかに個人のアイデンティティを確立するかに主眼を置いていた。しかし近年のフェミニズムは、個人が社会的関係に埋め込まれていることを重要視し、自己が関係によって変化するという点から、静的なアイデンティティを否定する。個人の経験は他者との、あるいは社会との関係をなくして捉えることができないという視点が、日本のサブカル界隈の物語にも同じように見られるのである。

 

おそらく90年代から0年代にかけてセカイ系が形成・発展し、10年代以降ゆるやかにセカイ系の否定がはじまったと考えているが、私はゼロ年代以前の作品群をあまりよく知らないため、このあたりの分析は識者にゆだねたいところである。いずれにせよ、こうした枠組みでノベルゲーム(だけではないのだが)の物語形式を見ていくと、時代の変化をより大きなコンテクストで捉えられるはずだ。

 

『アマツツミ』『紙の上の魔法使い』: 抵抗としてのエージェンシー

『アマツツミ』は天津罪や言霊といった日本的な主題を扱った作品でありながらも、同時に近代的自己、すなわち自立的主体という西洋的な主題をも含む和洋折衷の美しい作品だ。『紙の上の魔法使い』は、社会が個人に押しつける慣習を脱構築しつづけ、そのような構造的暴力に抵抗する物語であった。両者はともに、個人を抑圧する社会のヘゲモニーに対する抵抗の物語として読める。どちらも社会から周辺化された者が嗜むノベルゲームとしてはぴったりの物語である。

 

人間の自立的/自律的行動を基盤とした近代的自己は、他者や環境から影響を受けず、自分で自分の道徳的規範をつくりだす主体としてカントによって概念化された。近代社会における市民の理想像とされてきた自立的主体はとにかく様々な問題をはらむのだが、ここで関係する問題としては、この自己概念が他者への依存を否定するものだったという点が挙げられる。他者からの影響関係を否定するカントの自律性は、父権的社会において依存せざるをえない存在、たとえば子供や女性(父権的暴力の支配する社会において両者はしばしば男性に依存せざるをえない)が、社会や文化の構築に貢献するエージェンシーを持たないという価値観を正当化してしまう。ウォルター・ジョンソン(Walter Johnson)は奴隷的人間の反抗という点からエージェンシーを捉えなおし、父権的暴力に抵抗する力としてエージェンシーを捉えなおしている*1。西洋に限らず日本もまた父権的社会を問題視しつづけているが、他者との依存を重要視するノベルゲームの物語は、この問題に対しどう応えてきたか。いくつかの例を見てみたい。

オリジナルがコピーを支配するという『アマツツミ』のほたるの物語は、創造主/創造物の関係、つまりは西洋における神と人間のヒエラルキーの問題に焦点化する*2。誠たちの出逢ったほたるは入院中のほたるのコピーでしかなく、創造主に操られた存在として理解される。両者のほたるのあいだに存在するヒエラルキーは、最終的には誠との関係によって解消される。これは他者からの自立を支持してきたカント的自律性を否定し、他者への依存性(これは他者化したコピーの自分も含む意味での)を前提とした現代的な自己像を強調するものだ。男女の恋愛関係に依拠した、つまり社会的関係に依存した自己を(フェミニズムではこれを関係的自律として概念化している)強調する物語はノベルゲームにおいては定番である。『アマツツミ』では創造主/創造主はどちらも女性のほたるであるが、これは明らかに西洋における父権的ヒエラルキーとしての神/人間の関係性の再生産である。そのヒエラルキー転覆の契機を、ほかでもない男性の誠がつくりだしている点で、残念ながらこの物語は構造化された暴力の再強化をゆるしてしまっている。男性が父権的社会の暴力から女性を救うという図式は、西洋において幾度となくくり返されたクリシェである。

これに対し『紙の上の魔法使い』では『アマツツミ』と異なる応答をしており、とても興味深い。この物語では、女性を抑圧するナラティヴが父権的社会によって構築され、彼女たちからエージェンシーを奪う役割を果たしている。作中人物はみな紙の上の存在であり、つまりは個人の意志がすべて本に書かれた筋書き通りのもの、つまりは運命によるものだとされている。本という世界によって構築されたアイデンティティを個人に押しつけることで、社会を構成する個人のエージェンシーを否定する力は、女性からエージェンシーを奪う家父長制の構造的暴力として読める。なぜならこの暴力を生みだしたクリソベリルもまた、かつてのヨーロッパと思しき封建社会魔女狩りに遭った男性中心社会の被害者だからである。クリソベリルの力は、世界への復讐を通した父権的暴力の再生産によって強化されており、これが妃たちを操るナラティヴをつくりだしている。女性を苦しめるにあたり、自らを死に追いやった父権的暴力に依拠している点で、クリソベリルは現代社会の闇の深さを感じさせる人物である。

 

瑠璃がこうした暴力の制圧に成功するのは、妹の妃をはじめとする女性の抵抗とケアによるものだと言っていい。「オニキスの存在証明」を開かされていた妃が自殺を選択するのは、瑠璃を忘れてほかの男を好きになる自分の運命を否定するためであった。この意味で妃は、自分や瑠璃を抑圧するナラティヴに抗う、まさにジョンソンが述べたような抵抗のエージェンシーを表象する存在である。このような妃の行動やかなたの暗躍に見られる女性のエージェンシーは、クリソベリルの支配する社会システムを転覆し、暴力を解体した瑠璃の行動を支えるものであった。本作ではこのように、女性のエージェンシーとケアが構造的暴力の解体に貢献しており、男女の相互構築的関係(co-constituted relationships)、つまりは相互依存関係が、既存の社会システムを変革するものと解されているのだ。

*1:Johnson, Walter. “On Agency.” Journal of Social History, vol. 37, no. 1, 2003, pp. 113-24.

*2:神の似姿として神によって生みだされた人間は、先天的に神とのヒエラルキーに組み込まれている存在。ミルトンの『失楽園』などを参照

『WHITE ALBUM 2』: 社会的に構築される共感と抑圧

WHITE ALBUM2』に限らず、丸戸作品は個人の感情がいかに社会的に構築されるかを丹念にたどった作品が多い。またそれが集団的に共有され、共同体にとって支配的な価値観となるプロセスについても同様である。

 

『ホワルバ2』における雪菜/かずさ選択問題と春期の内的葛藤は、アフェクト理論の枠組みのなかで理解することができる。アフェクト理論では、間主観的に、複数の存在のあいだに生起する情緒的なエネルギーが、社会的、文化的、政治的文脈の中で形成されると理解する。たとえばとある共同体における攻撃的かつ感情的な行動が、いかにして社会や文化によって形づくられるのか、あるいは同じ社会・文化圏で生きる人々を結びつけるのかが問題となる。春樹、雪菜、かずさの生きる共同体は、現代日本において実に一般的な、公共の福祉に重きを置きつつ一部の人間を特権化・周辺化する伝統的村社会である。そのような共同体が共有する喜びや怒りに対し、個人としての春樹がどのように応答するのかが『ホワルバ2』の根底にあるテーマだと言っていい。

 

他者から除け者にされることを嫌う雪菜は、彼女たちの共同体の核となる代表的人物である。周囲との調和という雪菜が示す規範は、日本における伝統的な、現代においても支配的な家社会の価値観である。春樹や雪菜、かずさの生きる共同体においては、共同体と連帯しないかずさではなく、家族や友人との結びつきを重んじる雪菜を支持する価値観が根づいている。三人の抱く感情はつねにこの価値観の下で周囲に評価される。春樹がかずさを選ぶときの彼自身の葛藤と周囲の怒りや失望は、この共同体で共有された社会的価値、規範にそむく際、当然あらわれるべき感情である。雪菜とかずさのどちらかを選ぶ春樹の選択は、共同体の価値に対し春樹がそれをどのように評価し、応答するかを示す選択としても理解できる。

 

たとえば春樹が雪菜を選ぶプロセスは、社会の支配的価値に応えるものとして自分の感情を捉えなおす試みだと言える。日本の典型的な家社会を表象する雪菜の家庭は、前述のように、彼らが暮らす社会の基準や規範を示す家庭である。雪菜を裏切ることで一度その規範にそむいた春樹は、その行為が周囲にいかなる失意や悲しみをもたらし、自分自身にどう影響するのかを理解している。それゆえ春樹は雪菜との関係を通じ、自分の感情が自分の生きる共同体と不可分な関係にあることを肯定的に受け入れていく。その意味で雪菜ルートは、現代日本の慣習的な生き方を示したルートだと言えるだろう。

その一方でかずさルートは、このような価値が一部の共同体で構築された限定的なものに過ぎないことを認め、別の価値を対置しようとする物語であった。家社会に反するかずさを選ぶことは、雪菜だけでなく、彼女をとり巻く人間を斥けることでもあり、春樹とかずさは共同体の裏切り者と化してしまう。しかし春樹はむしろ、そのような反感をつくりだす社会システムが、これまでかずさを抑圧し、孤独に追いやってきたことに気づいている。彼は一見「やさしい世界」に見える社会ではなく、それとはまったく異なる環境こそがかずさを抑圧から解放すること、また自分の望むものであることに思い至る。それゆえ春樹とかずさは日本を出て海外に生活の場を求めざるをえない。

 

『ホワルバ2』で描かれるドラマは、日本社会で私たちが抱える葛藤を示しており、共感の嵐が沸き起こるのはまったく不思議なことではない。雪菜を選ぶ大団円は、個人が自分の生きる共同体とその価値を選びとり、それらを自分の規範とするためのexcuseを見出した結末であるし、過激なかずさエンドは、現代日本において共同体を否定することが個人に与える代償を正直に描いたものだ。このゲームをプレイして先人たちが感じた胃の痛みは、現代日本の社会に生きる我々を襲う胃の痛みと同じところから来ている。すなわちそれは、個人に対し同調ないし共感を強いる集団化された感情のうねりに、合わせること/そむくことの難しさから来るものだ。

 

『Swan Song』: 普通という障碍

これまでも書かれてこなかった、そしてこれからも書かれることがないであろう、あろえに焦点を当てた『Swan Song』のレビュー記事。障碍研究(disability studies)では、健常者を特権化する能力主義(ableism)の問題がしばしば議論されている。この記事ではその考え方を敷衍し、正常性(normalcy)をつくりだす構造的暴力について、自閉症あろえの分析を通して考えてみたい。

 

本篇の前日譚である「プレ・スワンソング」という短編がHPに掲載されている。このなかで、育児放棄したあろえの母親は「あの子は病気なのよ。あんな獣じみた子が、人間と一緒に暮らせるわけないわ」と言っている。それに対し、あろえとふたりで暮らしている姉は「病気じゃないわ、障碍よ」と返す。あろえの病気が治るかどうかをしきりに気にする母親は、あろえの障碍を医療ケアによって治すべきものとして捉えている。

 

障碍は健常と対になって社会的に構築されてきた。ルネサンス以降、西洋のヒューマニストが理性を中心に人間を定義したことで、理性をもたないとされる障害者は人間としての道徳的配慮を受けられず、抑圧されてきた歴史がある*1。障碍研究において、これは能力主義の暴力として問題視されてきたものだ。ここで言う理性的能力とは、たとえば現代においては、資本主義社会に貢献する能力と考えればわかりやすい。能力主義は、資本を生みだす健常な心身を持たない者を、社会にとって役に立たない存在に変えてしまう。能力主義において健常は障害者の社会的抑圧を正当化する規範(norm)となってしまうのである。レナード・J・ディヴィス(Lennard J. Davis)は能力主義を生みだす規範(norm)や正常性(normalcy)という考えが19世紀において構築されたと述べている*2。正常性にかなった健常者という規範が、障害を忌避すべき、治療すべき問題として捉えなおす考えを社会に生みだしたのである。

 

あろえの障碍を構築したのは、このようにして構造化された正常性の暴力であると言える。あろえの特質にも自閉症という名前がついており、社会では医療ケアが必要な病気として認識されている。正常性の指標から見えれば、健常者と異なる認知能力を持つあろえは、社会に貢献できない存在である。しかし大震災が起きたことにより、正常性の支配する社会の秩序が崩れ、人々はあろえを純粋で貴重な存在として再認識しはじめる。西洋のヒューマニストが信じたように理性が人間の条件であるならば、鍬形たちを社会に貢献する健常な市民として見ることができるか、彼とあろえを比較してどちらが病的だろうか、と我々は問わざるをえない。理性的能力を持つという正常な人間の前提が幻想であることは明白である。これは正常性という規範と障害がいかに社会的に構築されたものでるかを如実に示している。障害者を抑圧してきた構造的暴力は大震災によって崩壊し、あろえの特質は病気として見えてこなくなる。

また規則性に固執するあろえの特質は、世界に抑圧を生みだす二項対立的な価値観(これは西洋的な二分法と言えるが)を脱構築するものである。あろえの特質を説明する雲雀の分析はとても興味深い。あろえには「ナカマという概念がない」と雲雀は言う。仲間分け、すなわちグループ化は、つねにそれとは異なるグループを二項対立的に生みだしつつ成立するものである。この原理を理解できないあろえは当然、善悪の概念を持つこともない。彼女は対立したり敵対するものを生みだす力を持たない。それゆえ正常性に縛られる健常者にとっては相反する対象であっても、両者のあいだに別の秩序を与え、これらを調和させることができる。これがあろえだけが持つ「規則性」の力である。ばらばらのものを修復する彼女の力は、健常者の価値観に支配されたナカマ化とは異なる、別の枠組みで物事を統合する能力である。言うまでもなくそれは、震災後の世界に生きる司たちがまさに必要としている力であり、あろえのほかにそれを持つ者はだれひとりいないのだ。皮肉なことに、震災後の世界では、あろえの能力が唯一社会にとって価値あるものとして前景化するのである。

 

さらに皮肉なのは、震災後に人々を襲うのが、あろえのような障害者を抑圧してきた構造的暴力だという点である。それは鍬形たちが行使する、多数派の福祉のために少数派の抑圧が正当化されるという社会的暴力のことである。震災前の社会は、健常者をナカマ化する正常性を柱として機能していた。しかし社会制度が崩壊した震災後は、鍬形たちのグループが主張する正常性が社会の新しい秩序となり、その規範に当てはまらない田能村たちが抑圧の対象となる。しかしここで重要なのは、鍬形たちが敷いた社会システムは、一部のグループを特権化し、一部を抑圧するという点で、震災前の「健全な」社会システムと同じ暴力を構造化するシステムであることだ。あくまで抑圧対象が変化しただけに過ぎないのである。震災によって既存の社会システムが壊れたことで、今度はその恩恵にあずかっていた人間たちが抑圧を受けることになる。

 

あろえのような「障碍」を持たない司たちは、対立関係以外の秩序を世界に与えることができず、構造的暴力から逃れることができない。『Swan Song』では、障碍を持つあろえが変わらない、最も純粋な人間として生きているかに見える。彼女だけがまったく別の秩序を持って生きており、あろえと世界という別の二項対立が生まれていることも事実である。しかしその認識さえも、あろえの秩序の外にいる人間の見方でしかない。ナカマの概念が存在しないあろえは、なにかを比較して評価する(assess)ことがない。環境が変化しても彼女自身がまったく変化しないのはそれが理由である。健常者は正常性に固執せざるをえない「普通」という障碍を負っている。しかしだからこそ、世の中には彼女のような存在が必要なのである。

 

 

*1:また理性を持たないとみなされる動物と障害者は同一視され、抑圧されてきた歴史がある。これはあろえを「獣じみた」と言う母親の言葉にもよくあらわれている

*2:Davis, Lennard J. Enforcing Normalcy: Disability, Deafness, and the Body. Verso, 1995, p. 24. またこれは19世紀イギリスで立て続けに障害者法が成立したり、障害者施設が設立されたことにもよる。

『AIR』: Collective Careの実践

この記事では、黒人のフェミニストたちが提唱したコレクティヴ・ケアの考えによりながら、ケアの物語として『AIR』を読みなおしてみたい。擬似家族のような関係は決して現代に限定されたものではないものの、核家族でない家族の形の必要性が議論されるようになった現代において、より重要視されるようになったと言うべきだろうか。ノベルゲームで多く描かれる擬似家族を考えるうえで、ケア倫理がひとつの切り口になればとてもおもしろいと思うのだ。

 

黒人のフェミニストにとってケアとは「生存の哲学(a philosophy of survival)」であるとアイシャ・K・フィンチ(Aisha K. Finch)は書いている*1。かつてアメリカの黒人奴隷は、所有者の白人の権限により、必ずしも自分の家族と暮らせるとは限らなかった。そのような環境下で黒人奴隷は、同じ共同体において他者が互いの子供をケアする慣習をつくりあげた。これをコレクティヴ・ケアと呼ぶ。つまりコレクティヴ・ケア*2とは、社会的抑圧を生き抜くために複数の人々が互いにケア関係を結ぶことであり、自分たちのアイデンティティや共同体を守るための手段だったのである。このようなコレクティヴ・ケアにおいて、特に女性がほかの子供の育児を請け負うことを、パトリシア・ヒル・コリンズ(Patricia Hill Collins)は「共同育児(othermothering)」という言葉で概念化した*3ヒル・コリンズは、かつての黒人の共同育児の慣習が、現代においてもなお重要であることを示している。なぜなら共同育児は、親類関係(kinship)を親族を超えて拡大していく、子供を育てる新しい形態の模索を可能にするものだからだ。

 

AIR』は現代的なケア関係を描いた興味深い物語である。物語は美鈴が往人を家に招き、食事をふるまうところからはじまる。そして今度は往人が晴子の頼みで美鈴の面倒を見ることになる。晴子はそんなふたりを家に置く保護者の立ち位置である*4。ケア関係は基本的に均質的な相互関係ではないとされているが(そんな関係はありえないわけだが)、彼らの関係も例外ではない。しかし三人ともがケア提供者/ケア需要者の関係を相互的に担っている点は重要である。神尾家をめぐるケア関係の中心にいるのは言うまでもなく美鈴だが、彼女もまた往人に生活の基盤を与え、晴子を母親として認めることでケア実践者としての役割を担う。

ケア関係は三人に、現代社会の常識がつくりだす社会的抑圧から逃れることを可能にする。往人は人形劇という、現代の資本主義社会において価値を生みだしづらい伝統を守っているがゆえ、社会的弱者となってしまった青年である。美鈴は学習障害発達障害のきらいがあり、社会が構築する能力主義(健常者の認知力や言語運用能力を社会標準的な基準とすること)によって周辺化された存在だ。また晴子もシングルマザーとして過酷な生活を強いられており、母親業のジェンダー化という現代社会の構造的暴力の犠牲者だと言える。こうして見ると、神尾家の三人はなかなかに現代的な、かつ訳ありな、周辺化された存在と言えるのではないだろうか。彼らは現代日本における核家族の常識から見れば、やや異質な、他者によるケア関係を家族の形として受け入れている。三人の擬似家族はまさにコレクティヴ・ケアや共同育児の実践である。なぜなら彼らは、他者との共同生活を通して、自分たちを抑圧する社会とは別のシステムを持つ共同体をつくりだしているからだ。また往人が美鈴の面倒を見ていることから、三人のケア関係は母親業のジェンダー化を是正するケア実践としての側面も持つ。彼らのコレクティヴ・ケアは、社会における三人の周辺化/他者化が、いかに一般社会の常識によって構築されたものであるかを浮き彫りにする。

 

そしてだれかと親密になると発作を起こしてしまう美鈴は、ケアにおける互恵関係の限界を示す存在として理解できる*5。親密すぎる関係が阻まれることから、適度な距離をもってケア関係を保たねばならない。美鈴の発作は、生存の哲学という意味での共同育児の重要性を強調するものでもある。三人のケア関係は、偶然によって成された、いつ別れが来るとも知れないケア関係である。美鈴の発作は、親密な相手との別れの予感をつねにはらむ、擬似家族の不安定性をあらわしたものだろう。しかし美鈴が最後に実父ではなく晴子を選ぶことからもわかるように、たとえ距離のある関係だとしても、他者どうしのケア関係は愛情を育むことができる。慣習的な家族とは異なる別の家族関係や子育ての関係を肯定的に描いている点で『AIR』はコレクティヴ・ケアの可能性を示した作品だと言えるのだ。

 

 

 

*1:"Introduction: Black Feminism and the Practice of Care," Palimpsest: A Journal on Women, Gender, and the Black International,

vol. 11, no. 1, 2022, p. 2. コレクティヴ・ケアについても本論文を参照。

*2:これを「集団的ケア」と訳すとやや意味が変わってしまうので、このまま使いたい。実際に『ケア・コレクティヴ』という訳書が出ているので、日本でもこのまま使うのが主流になるのではないか。

*3:Hill Collins, Patricia. Black Feminist Thought: Knowledge, Consciousness, and the Politics of Empowerment, Unwin Hyman, 1990, p. 120

*4:ここでは割愛するが、このようなケア関係は過去篇の神奈たちにも当てはまるものである。

*5:美鈴は、現代社会の能力主義が健常に対し障碍をつくりだす例としても読めるが、その話はまた別の機会にでも。