ノベルゲームにおいて環境人文学に関わるテーマが少ないと感じるのは私だけだろうか。これは環境、非人間を表象することが、人間の社会関係にどう影響するかを捉えるのが難しいということなのか。しかし人間の身体の物質性に注目するとき、再考したいと思う作品がいくつかあった。そのなかでもここでは『沙耶の唄』と『ぼくのたいせつなもの』についてふれてみたい。作品自体へ言及する前に、今回の理論的枠組であるマテリアル・エコクリティシズムについて少しだけ整理する。
人間と非人間の関係を探求するマテリアリズム・エコクリティシズムの議論から、この記事で検討するテーマは三つである。ひとつは人間の抱く純粋性(purity)について。これがいかに人間中心的な(anthropocentric)幻想であり、人間にとって不衛生で有害なものが、非人間にとってはその限りではないという近年の議論はとても重要である*1。また腐蝕によって身体が人間/非人間の豊かな交流の場となるという議論も一考に値する*2。ふたつめは生物がはらむ超身体性(trans-corporeality)について。人間や非人間(生物だけでなく無生物も含む)は日々の営みのなかでつねに別の身体と接触し、その影響を受けて生きている。つまり超身体性とは、人間の身体と環境とのあいだの物質的交換を意味する*3。その意味で一個の身体は、様々な身体が複雑に交錯した錯綜体(assemblage)だと捉えられる。最後は非人間のエージェンシーについて。これはエージェンシーが人間中心的に捉えられてきたというポスト・ヒューマニズムの議論にも関わるもので、非人間が世界を構築するさまをどのように理解するかが問題となる。
『沙耶の唄』における肉塊の表現は、私たちの世界に対する認識がいかに人間中心的であるかを視覚化するものだ。本作において、人間も世界も別け隔てなく同じ肉塊であることは、すべてのものの区別をなくし均質化する問題点をはらむ一方、人間も非人間も同じ物質にすぎないことを強調する。これは地球上で人間だけが言語を操る知的な存在であるという人間例外主義(human exceptionalism)に疑問を呈し、人間/非人間の二項対立を解体すること、つまりは人間と非人間は隔てなく交錯して世界を構築していることを意味する。人間の視覚中心主義(ocularcentrism)への批判としても理解できる肉塊の世界は、自分たちにとってグロテスクに見えるものを人間がいかに社会から排除してきたかを暗に示すものでもある。
こうした肉塊の世界と沙耶の存在は、私たちの持つ清潔さ、純粋性という幻想をうち砕き、人間のものとは異なる視界で世界を描きなおすよう促す。郁紀にとっては美しい少女である沙耶が、彼以外には腐敗した肉塊に見えるという現実は、人間の抱く純粋性が普遍的でないことを暗に示すものだ。沙耶が郁紀を生かすということは、人間から(一部の人間から、と言ってもいい)見れば醜いものに人間が生かされており、世界は人間にとって醜いものから成っているという証左でもある。これらの表現はいずれも、人間と非人間の互恵関係を評価する際、人間はそれをグロテスクにしか描けないという問題をも前景化する。グロテスクなものを排除しようとする私たちの傾向が、人間/非人間の互恵関係を積極的には認めない、かねてからの人間中心主義を高めてきたことは事実である。こうした美醜の反転、同一化を扱っている点で、本作は環境人文学的なメッセージをはらむものだと言える。
『ぼくのたいせつなもの』のケミカルと臓器移植の問題は、人間の物質的身体性についての好例を提供してくれる。物質としての臓器を移植することで人間が生かされるというのは、人間が非人間との接触によって生きていることの証左である。ケミカルという医療実践、そして臓器移植によって焦点化されているのは、人間/非人間における物質的交換関係であり、両者が人間の身体において(あるいは非人間の身体において)交錯するという超身体性である。臓器は人間の一部でありながらも、それだけでは機能せず、人間の身体に埋めこまれてはじめて機能を果たす。ケミカルもまた、限りなく人間に近い非人間でありながらも、人間の助力なくしては存続できない存在である。本作のケミカルは、様々な物質がネットワークを構築して人間の生を支えていること(逆もまた然り)、さらに人間と非人間が相互構築的関係にあることを示す役割を果たしている。
両作品はいずれも、人間と非人間が交錯する身体性の問題を通して、人間とはどんな存在なのかを問いなおすポスト・ヒューマニズムの問題を提起する。肉塊としての沙耶も、ケミカルとしての冬木、あるいは臓器も、エージェントとして世界の構築に関わる非人間であり、人間に与える非人間の影響の大きさを物語っている。身体性が重要となることの多いノベルゲームにおいて、人間の物質性から非人間との関係をどのように記述するかは、今後の注目すべきポイントのひとつであると思う。